mother
芦田愛菜主演のドラマかと思った?なわけねーだろ
母なる海に行ってきたの。
アーーーーもう海のこととかどうでもいい
いやどうでもよくない、海は綺麗だったしめちゃめちゃ感動したわ
もう無理自分の自意識過剰なところとか、自分に対する設定をがんじがらめにしていまいち自分でもよくわからなくなっちゃってるところとか、飽きっぽいところも調子に乗りやすいところもご都合主義なところも全部大嫌い、受け入れがたい、でも好き、困っちゃうな。自分のことがこの世で一番大切で尊くて幸せでずっとずっと見ていたくてでも一番大嫌いだ。人ってみんなそんなもんだろうけど。
隙あれば自分語りをする大学生なので自分語りをします。ここは私のブログですから。
普段はLGBTネタなんて絶対書かないけど書いてやるんだから!
自分が何者か、なんて大抵の人は中学生や高校生で終わらせる問いをずるずると引きずってきた、いや、適当にごまかして生きてきた感じ、
「結局心の性別は男なの?女なの?」だったり
「男が好きなの?女が好きなの?」だったり
そんな質問に悩んできたり自分でもよくわかんなかったり、
どうすればうまく切り抜けられるのか、どうすれば自分で受け入れられるのかをずっと探してきた。他人をごまかすのよりも自分で受け入れやすい答えを探してきた。
♡中略♡
何があったかというとこの時私はおもむろに友達と電話を始め、その友達が隠し事する必要ないような関係性ですべてのことを大っぴらに話してしまったために病んでたのが割とどうでもなってしまいました。中略後と中略前で1日のギャップがあり時間のギャップもあればテンションのギャップもあって大層読みにくくなることが予想される上にこれは私の日記、将来の私への手紙なのでまぁ書くわ。日記なんて病んでる時に気持ちを吐き出して鎮めるためのものであって別に病んでない時に書く日記はそこまで面白くないんだよなぁ、結局人に向かって話すのが一番、アンネフランクだってそう。
親愛なるキティへ、から書き始めたアンネはコミュニケーションが制限されたあの時に誰かに向かって自分の思いを発散しようとしたんだろうな、私にはマジで存在する親愛なるキティたる友人がいてよかった、そのことは救いであるし私の人生の誇りだ。
かつ、私も誰かのキティであらんことを願う。
話を戻します。自分のことについて。
自分が受け入れやすい体制として私は誰のことも好きにならない、誰のことも求めない、男でも女でもないという形をとった。
これが完全なウソなわけじゃないし、私のこのスタンスは間違ってないでも厳密には違うだろうなとも思う。説明は長引けば面倒くさいしできるだけ簡潔に、分かりやすく、ということを意識してオカマというのも好き。オカマって適度に下品な感じだけど言葉のリズムはリズミカルで可愛い。
まずは性別のことについて
性自認はどこへでも着ていけるような脱げない服のようなものでできるだけシンプルに、分かりやすく。自分でも曖昧な、つかみどころのないものだったり型にはまらないものは輪郭はぼやけてるし透けすぎててかなり異質、だからできるだけ分かりやすくを意識したのかな。
とはいえ性別はグラデーションというのは本当だった。
ゲイの男性と会う時は男らしくを心がけるのは相手は男として男が好きだから、役回りをはっきりさせるためという当初の目的はあったが次第にそれは心地よくなった。初めて自分のことを「私」といった時と同じくらい、自分のことを自然に「俺」といった時は心が軽くなった。どれも本当の自分で、私で、俺だということを認識した。
相手によって一人称を変えるのは、自分が好きでやってるのも相手がびっくりしちゃわないように(笑)っていうのも両方あるのかも。オカマとして振る舞うのも男として振る舞うのも両方楽しい。さっきの例えを使うとみんなが一着しか持ってない性という服を、不恰好かもしれないけれど二着もってるみたいな。もしかしたらもっとたくさん持ってるのかもしれないし、一着の服だけどリバーシブルのジャケットみたいにたくさんの着方ができるのかもしれない。
次は性的指向について
こんなことを書くようになるなんて、とまず自分の成長に驚く。だって一番書きたくないし知りたくないしはっきりさせたくない部分だから。散財癖のある私の通帳とか、クレジットカードの明細のように見たくないけど、見なきゃいけない部分。ついに見るときが来たのだ。
なんで見るときがきたのか?というと初めて人に執着したからです!初めてだわ!
読んでない人はこの記事を読んでくれ、忘れた人も読んでくれ。
私の人生の転機みたいな感じだ。
会って二回目でヤっただけなのにね。でもビビッときた。
私の好きなものすべてを持っていた。友達に盛大に好きポイントを送りつけたのでそれをそのまま貼る。コピペでもいいんだけど臨場感が大事なのでトーク画面を貼る。ラインだって大事な思い出の一つだ。
っていう。そういえば私はオカマとオカマ話をするもの好きだ。
とにかく平成最後に、1年半ぶりくらいに性交渉した男が最高だったのだ。
というより、私は私のことを好きな人が少なからず好きで、その人が自分の好きな要素のかなりを持ってるってすごいだろ、嫌いなとこ以外全部好きだ。
というわけで初めてのビビッと体験を齢21にして初めてした私は否応なく自分の性的指向について改めて考え直す必要が出てきた。
この感情は私にとってのエラーであって脳か、もしくは心に生じたバグだった。誰も好きにならない、欲しない、求めないのスタンスが崩れた瞬間だから。
もう一回会いたいなと思うと同時にもう二度と会いたくないとも思う。会わなければ一時的な感情の波が襲ってきて私が積み上げてきたものを壊すけど、しばらくすれば私はまた同じように今までのものを短い間に積み上げてあれは忌々しきバグだったな、と平穏にも暮らせるだろう。
そして別に付き合いたいわけでもないし、彼とどうにかなりたいわけではない。お互いに都合のいいセフレになれれば私はその形を最も望むだろう。これは別に諦めでもなんでもなく私の人生に対する価値観に起因するものだと思うけど。(今書くとだるいので今度書く)
ゲイかと言われるとそうなのかはわからないけど男に対する好きと女に対する好きが違う、説明が難しいな、女に対する愛は永続的で友愛的であるし男に対する愛は刹那的で情熱的であるような気がする。私の中のオカマの、強く女の色が出ている部分はきっと女と一体化したいという欲を持っているのかもしれない。男の部分は深く愛されたいと願っているのかもしれない。自分のことなのに難しくてよくわからない。
だから会いたい会いたいでもどうにかなりたいわけじゃなくてもう一回セックスがしたいみたいなこの感情を何と名付ければいいのかわからないという、やだ野田洋次郎みたいなこと言っちゃんだけどとりあえずそんな感じ、でも今の私はこんな感じだよ。
私が死ぬまでにどうか答えが見つかりますように。
その答えに納得できますように。
その答え合わせが、とっても素敵な時間になりますように。